誰しも日常ふとした時に不思議な感覚を覚えることがある。デジャ・ヴュなんてのはその代表かもしれない。実際自分にもこれは今までに5-6回は経験があるんじゃないかと思う。ただ、その場面を少し遅れて感覚として捉えるだけで、そこに予測しうる事態を自分から積極的に求めて、また変えていくような行為には及ばないのである。そうしてまた、ほどなくして本来の時間軸の流れに戻っていく。
それから、時にあるのが歩行中や運転中に(これはある意味危険なのであるが・・・)、何か考え事、たとえばその時の悩みの解決法に思案を巡らすことや何か良いアイディアを突然思いついてそれについてあれこれ考える際にその間の移動途中の記憶が全く欠落していることである。むろん途中の階段も横断歩道も交差点も何の問題もなく切り抜けているはずである。この感覚に最初に気付いたのは、う~ん、小学2年生か3年生だったと思う。朝の登校時にふと気づいたら、途中の記憶が飛んでいて地下道の出口をちょうど地上に出たところだった。歩きながら何を考えていたのかは覚えていない。ただ、ふと我に帰った時は、あれ?何?ここは?という感覚だけが強く残った。
3つ目はこれも無意識のうちに起きた出来事だと思う。多分小学校6年生から中学1,2年生のいずれかの時期だったと思う。何か他のことを考えながら、ある食器を棚から取ろうとした時に、気付いた時には本来の目的の食器ではなく、その食器と考え事をしていたその内容のある部分をミックスした他の食器か何か食事に使う道具を手にしていた。おそらく無意識に2つのモノを頭の中でミックスして作り上げたのであろう。実際手にしたものが余りにもその両方の性質を兼ね備えていたので、いたく感動した。その食器が何であったのか、その時何を考えていたのかは残念ながら記憶にない。この時ほど、感動した時は記録に残しておくべきだと思ったことはない。
2010年7月18日日曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
カタルパの木 久し振りの投稿。この道は数十回と通っているはずなのであるが、気づいていなかった。カタルパの木、アメリカキササゲという北米由来の樹木である(木大角豆とも書くらしい、読めない)。初夏に開花するとある。今朝、久し振りに高良山に登ろうと車でいつものルートで参道下に向かう途中...
-
写真は大浦のボウリング発祥の地のモニュメント。ここにあったのは知らなかった。あらためて撮影。昭和40年代後半から50年代前半にかけたボウリング全盛時代には市内に合計4か所のボウリング場があった。ゴールデンボウル(家野町)、ラッキーボウル(大橋町)、72ボウル(宝町)、そしてスポ...
-
とても天気がよかったので久しぶりに近所の散策に出かけた。いつも車で近くは通っているのだけど、やはり歩いてみるといろんな細かいことに気付く。その中で今回はちょっとショッキングなことになってた。あの永井学生センターがとうとう取り壊されて平地になってしまっていたのだ。たぶん駐車場...
-
前回豆腐の話を書いたとき、玄海嵐が出てきたので、つい九大時代の食生活について書きたくなった。時は1991年。まだ日本がいろんな事に前向きで元気のあったころ(というか、バブルか)。当然まだ独身であったので、ラボの学生や企業から来ていた同年代の研究生なんかとよく食事に出かけた。この...
0 件のコメント:
コメントを投稿